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2015年2月27日 (金)

古川城址踏破

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2月21日(土)曇り

古川山を町内の子供1人含む有志12人で踏破した。
古川山は標高221.7m。よって、毎年2月21日または2月22日に登って
いるのに参加した。

 
 10時に地蔵前に集合出発で登山口は加用橋から。民家の脇を通っていく。
登山道は下草や桜の木が手入れされ、きちんと整美されている。
前日から晴れていたので歩きやすい。少し風が冷たいが登山には心地よい。
15分ほど歩いた広場になっているところで小休憩。それから尾根伝いに登る。
雑木林の中を歩く感じだ。道は落ち葉で判別できない。途中目印のになる
ビニールテープを貼ってある所もあるが迷ってしまいそうで、
前の人の足跡を辿って歩く。ほどなく三叉路へ。山の反対側からの登山口だ。
間違った方向に行くと山を下りでしまう。まだまだ歩く。急勾配で少し息が切れる。
 やっと古川山頂上に着いた。ここが昔、城か砦があったところだ。
眼下には木の間から家の屋根がすごく近くにあるように見える。また休憩し、
昔談義に花が咲く。

 次は尾根伝いの下りだ。足を踏ん張るのに滑りそうで登るよりきつい。
うっそうとした竹林で倒れた竹が散乱してこれでは手がついていないのではと思う。
山の神様(お地蔵様)を拝んで無時の帰還を感謝。2時間のコースだった。

 民家の横を通ろうとした時に民家の掃出し窓から仰向けに人が倒れているのが
見えた。すぐさま誰かが「救急車、救急車」と叫び、救急車の手配などを皆で手分けした。
救急車もすぐに来て搬送されたので家路についた。
たまたま通りかかったので通報できたが大きな事故にならなくてよかった。

 <古川城址資料>
 古川城跡は徳吉の東、志井との境にある古川山山頂にあり、西側の山麓は
紫側が流れ、川に沿って小倉から田川に通じる主要地方道が通じている。
この主要地方道は小倉南区曽根の塩を田川秋月方面に運ぶソルトロードである。
この道を管理する重要な役目を持って築かれたのが、古川山城と言われる。
本丸は東西18m、南北25mほどの楕円形平地で北には幅5m、深さ6mほどの
空堀がある。本丸の北、南東、南西に南北古川城山は鎌倉時代中頃1278~88年
長野城主長野豊前の守種盛が築き、応永年間(1394~1428年)は長野左兵衛
佐義衡の居城であった。応永6(1399)年2月、大内盛見の攻撃を受けて降伏、
この時一時廃城となり廃却されたが戦国時代に重要支城として再築されたという。
永禄11(1568)年8月、毛利元就は、吉川元春、小早川隆景を将とする5万の大軍を
北九州に派遣した。激戦の末、長野氏の諸城の長野城、三岳城、古川城は落城した。
          北九州の文化財を守る会会長 史学博士廣﨑篤夫資料による

登山経路

Photo

登山口の湧水

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頂上付近

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